第三回 豊かな未来に向けて

情報・システム研究機構 事務局長 呉 茂 

 世界大戦後の思想界において一世を風靡した実存主義の余燼が未だ燻っていた私の学生時代、サルトルなどを読み漁っていた延長で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉に行き当たり、まさに驚天動地の衝撃を受けました。

 私は幼い頃から家庭も学校も周囲は男ばかりで、青春時代は、女性とは別の言葉をしゃべる全く違った生き物ではないかと嘆くくらい、男女間のコミュニケーションに難儀していました。しかし、その後はなんの疑問を抱くこともなく、就職し更に結婚して子どもを儲け、規範づくめのさまざまな人生のステージを遮二無二歩んでいるうちに、「な~んだ、自分も男としてつくられてきたのではないか、なんて不自由なのだ、その意味では男性も同じだ」と実感するようになりました。

 殊に海外との交流の仕事に携わるようになって、もしもそのように同じであると思うならば、やはり"gender equality"でなければ、人間としてフェアじゃないと考えるようになりました。果たしてこの社会では、女性は男性と対等の仲間であり、あらゆる活動領域で活躍する機会が得られ、さまざまな利益を共有できているのかな?そう自問してみると、社会人として管理職として、やらなければならないことが見えてくるような気がします。

 因みにボーヴォワールはセックスとジェンダーとの相違、また後者が社会や文化の中で獲得されるアイデンティの一つであることを明らかにしようとしていたといわれています。今日的にジェンダーを考えるときに、いろいろな解釈がなされているようですが、生物学的な性差だけでなく、社会的文化的な性のありようの違いに目を向けることは、理解や問題の取り組みにおいて重要な手がかりになるものと思います。ただしその「ありよう」も科学・技術や情報手段の急速な発達により、驚くほど変容しつつあり、物理的にも意識の上においても、男女の距離はどんどん縮まってきているように感じられます。

 もっとも社会的なコンセンサスが必要な改革・改善への道のりは平坦ではありません。科研費を増額したからといって直ぐに優れた論文が陸続と産出することにならないように、サイエンスの領域、特に人材の養成に関しては、単純な国際比較、無理な数合わせ、性急な評価は逆効果で、政策的に配慮を行うこと自体は否定しませんが、あまり実効を挙げているようには見受けられません。机上で大計画を作成するよりは、働きやすい環境づくりに向けて、実態を調査・分析し、こまめに資源のアロケーションやシステムを変えて、できるところから今すぐに積極的かつ持続的に取り組んでゆくことが肝要かと考えます。

 日本政府の財政は破綻寸前で、教育研究機関への支援も先細りの状況です。こうした窮乏下においては、機構も研究所も、一人でも優秀な人材が欲しい、採用したならばしたで能力のアップを図り一騎当千となって欲しい、経験豊富なベテランにはいつまでも留まって欲しい、と願うのは当然のことで、そこには男性、女性の区別は無用です。それを実現するためには、先例に捉われず、費用や機会を惜しまず、できるだけオープンに進める必要があります。

 長い人生においては、男女の差よりはむしろ人それぞれの違いの方が大きく、そこにこそ人間の魅力があります。人権を尊重し、それぞれの能力を正当に評価し、個性の豊かさを真摯に追い求めることは、自ずと男女の差別をなくしてゆくことにつながってゆくものと信じています。